今から約640年前、康安年間(室町時代)のこと、鎌倉建長寺の開山大覚禅師のお弟子、友嶽和尚が行脚中、原大塚の海辺にさしかかった時、海の響きに感応道交して歓喜雀躍、念持仏の虚空蔵菩薩を奉安して一堂宇を建立しました。
その場所(一堂宇)が砂州の上にあり、満潮の時には根方街道から見ると海の上に浮かんでいるように見えたので山号を海上山としたと伝えられています。
ここは十返舎十九の『東海道中膝栗毛』に「ぬ(飲)まず食わずではらへった」と出てくる東海道・五十三次のうち十三番目の原の宿。「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とうたわれているように日本臨済宗中興の祖・白隠禅師ふるさとであります。
白隠禅師の時代には松蔭寺での修行僧が宿坊として使い、松蔭寺から長興寺まで通った道が今も残っており「白隠道」と称されています。
たまたま私は杉原千畝の奥様・幸子夫人の沼津での講演(平成6年)のDVDを見て、初めて夫人が沼津生まれであることを知りました。縁あって、「生命のビザ」が発給されたリトアニアに行った時、公園や道路、記念碑などで杉原千畝が顕彰されていることを知りました。
そこで縁の地・沼津でも顕彰碑を建立し、お二人の勇気ある偉業と、人道の精神を後世に伝える活動に取り組むようになりました。